光清寺は江戸前期(1669)に開山した臨済宗建仁寺派の寺院である。庭園は2ヶ所あり本堂西庭には、昭和42年(1967)に第11世透関和尚の依頼により重森三玲によって「心和の庭」を作庭。社務所西側には、昭和49年(1974)に、同じく重森三玲によって「心月庭」を作庭。一般非公開であるが、特別公開で拝観できる。
2026年「京の冬の旅」非公開文化財特別公開にて「心和の庭」を拝観。本庭園は重森三玲によって作庭された枯山水であり、特別公開では何度か三玲のお孫さんにあたる千靑氏による作庭当初の砂紋の復元イベントが行われていた。
重森三玲の庭園は見どころが多いものだが、「心和の庭」もその例に漏れない。「心和の庭」の名は、山号の「心和山(しんわさん)」に由来する。この枯山水を上部から眺めると、「心」の字を描いているのが特徴だ。池を心の字にしているケースは多いが、枯山水で心の字にしているのは本庭が初とのこと。さらに、七五三石組になっている。通常、七五三石組は15石で構成されるが、こちらでは図解しているように、いくつかの石が共通になっており、これを「組合せ七五三」と呼ぶ。これは昨年、重森庭園設計研究室を訪問した際に重森千靑氏に教わった。また、それぞれの島は不老不死の仙人が住むとされる4つの霊山・四神仙島(ししんせんじま)の蓬莱、方丈、瀛洲、壺梁に見立てられている。
まずは左から方丈島、蓬莱島にある立石で三尊石の三石組。中央の本尊石は本堂のご本尊と向き合っている。
続いて、蓬莱島には七石組となっており、塀沿いには左から瀛洲島(えいじゅうしま)、壺梁島(こりょうしま)を設けている。
こちらが瀛洲島(えいじゅうしま)。ちなみに江戸時代の漢詩などでは日本を風雅に表現する別称として「瀛洲」が使われることがある。
奥の島が壺梁島だ。先ほど紹介した「三尊石の中尊石」、そして「瀛洲島の二石」「壺梁島の二石」を合わせることで、全体として「五石組」を構成している。
生垣は縦に割った竹を隙間なく並べて固定した建仁寺垣だ。
公開当初はスマートフォンのみの撮影となっていたが、当日はカメラによる制限はなく、公式サイトにもスマートフォンのみの制限は削除されていた。土曜日ということもあり開門前から20名ほどの行列ができていたが、比較的落ち着いて鑑賞できる環境であった。
高低差を設けた野筋で、弧を描く洲浜形の曲線は重森三玲の作品でよく見られる意匠である。
寺紋越しに「心和の庭」を撮影。
寺紋越しに「心和の庭」を撮影。
重森三玲によって作庭された「心月庭」であり、こちらは常時見学できる枯山水である。
白砂台を設け、背の低い透かし垣として代表的な「金閣寺垣」で囲んでいる。「心月」は心の真実を月にたとえた表現である。
白砂台を設けたのは、月光を反射させて庭園や本堂を照らす役割もあり、「心月庭」にちなんでのものだろう。白砂台としては、慈照寺(銀閣寺)の銀沙灘(ぎんしゃだん)が有名である。
| ○ | 重森三玲の作品らしく庭園に、多くの要素を込めた見応えある枯山水である。特に10石で組合せ七五三(七五三石組)を構成しているのは珍しいものである。 |
| × | 特に見当たらない。 |